藩の裁定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 03:58 UTC 版)
「宇都宮興禅寺刃傷事件」の記事における「藩の裁定」の解説
前主の法要の場での重臣同士による刃傷事件でありながら、藩の裁定は一向に定まらなかった。仲裁に入った兵藤玄蕃も新しく藩主となった奥平昌能に喧嘩両成敗を進言していたが、容認されなかったという。一方、蟄居閉門中の隼人には、処分が下る前に切腹して謝罪の意思を示すよう親族の長老が説得に赴いている。当の隼人も観念していたが、隼人の老父・半斎が頑としてはねつけたという。 結局、藩の処分は事件から半年後の9月2日(西暦1668年10月7日)に下された。隼人は改易、切腹した内蔵允の嫡子で12歳の奥平源八ならびに内蔵允の従弟伝蔵正長は家禄没収の上、追放が申し渡された。両者とも奥平家を追い出されるかたちでありながら、大きな差があった。内蔵充の遺児たちは、両成敗ならば隼人は切腹となるはずであると考えて、藩の裁定を依怙贔屓とみた。源八たちに対しては即日退去を命じておきながら、隼人と、その父半斎へは物々しい護衛を付けて送り出しているのである。半斎・隼人の父子らは、江戸の旗本・大久保助右衛門の屋敷に身を寄せた。
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