藍の生産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:38 UTC 版)
江戸時代には藍は染料として重要な作物であり、多く生産されていた。当時有名であった藍の産地は阿波国(徳島県)の吉野川周辺である。この他に利根川周辺が藍の生産に適した土地であり、大量生産されていた。血洗島も利根川が近く生産に適していたため、藍の生産は盛んであった。また、藍を育てる肥料となる粕や干鰯を「中瀬河岸」経由で入手することが出来たため、良質な藍を生産することが可能であった。後述する渋沢家の「中の家」でも藍を栽培、それを使い染料となる藍玉を製造していた。渋沢栄一の最初の商売活動は血洗島で取れた「藍葉の鑑定」であったと言われている。栄一は「武州自慢鑑藍玉力競」の番付表を作り、藍の農家を競わせることで阿波(徳島県)の藍に負けないものにしようとした。 なお、この藍の生産はインド藍の輸入やドイツ製の化学染料の普及により、明治期の終盤頃までにほぼ終焉し養蚕に置き換わったが、養蚕も終戦後に急速に衰退した。
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