菊地秀右衛門(きくちひでえもん)
明和二~嘉永四(1765~1851)年。諱(いなみ)は武昌(たけまさ)。八丈島におけるカンショ栽培の功労者。『八丈実記拠』巻二五に「文化八辛未年(1811年)大賀郷(おおかご)名主筆頭菊地秀右衛門武昌新島ニテ破船シ逼留の砌(みぎ)リ 薩摩国ノ漂流人宇兵衛ト云(い)ウ者送リタル蕃薯(ばんしょ)種子ヲ新島ヨリ貰得テ八丈島ニ持帰リ植ヒロム」「文化九壬申年(1812年)秀右衛門忰小源太武達ハンスト云(いう)薩摩芋ヲ国地ヨリ持参ス」とある。このハンス種はあまり育たず、文政五(1822)年、小源太は新たなハンス種の種芋(たねいも)を移入し、秀右衛門のもたらした赤サツマ種とともに栽培に成功し「天保ノナカバヨリ ヤウヤク地味ニ合シテ 八丈小島青島マデ農家各々数百俵ノ美味ヲ収納」(前掲書)するまでになった。八丈町大賀郷字馬路の菊地家の墓所内に「八丈島甘藷由来碑」がある。現在その碑文はほとんど判読できないが、『八丈実記』に「馬路の坂路左の方なる桜樹のもとに 方四尺ばかりの碑銘あり たちどまりこれを見れば 云く文化八辛未年四月新島ヨリ持参赤サツマ種作初 六代目菊地秀右衛門文政五壬午年四月右同断ホンス種 七代目菊地小源太これ八丈小島青ヶ島の者共ききんをわすれ人命を全うする名主の墓所なり」とある。
- 菊地秀右衛門のページへのリンク