色柄の種類
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 02:53 UTC 版)
従来の行田足袋は、地産の青縞織や白木綿を活用した紺(藍染)と白地に限られていた。江戸時代末期から明治前半になると、海外から輸入された更紗を用いた柄足袋や、赤系統の色足袋をはじめ、様々な色柄の足袋が製造された。 幕末に登場した赤系の色足袋は、紅紋羽・緋紋羽・上緋紋羽などを足袋底に用い、蘇芳や弁柄などで染めたとみられる「遠州赤」と呼ばれた他地域から商った赤色の木綿を表地に使用した、子ども用の色足袋であったとみられる。 1859年7月1日(安政6年6月2日)に横浜が開港すると、ヨーロッパ製とみられる唐更紗や唐更紗雲斎を用いた柄足袋や、晒金巾(キャラコ)、紺金巾、金巾白、インド製の天竺金巾などの高価な輸入綿織物が導入された。これらの現物史料は残されていないが、表地にこうした高級な布地を用いた、ファッション性を求めた新しい足袋が製造されたものとみられる。当時の日本には生産技術がなかった薄手の綿織物である金巾(キャラコ)や、鮮やかな色彩で曲線的な草花を描いた更紗は、異国情緒漂う唐物として開港以前から潜在的に庶民に人気があり、密貿易により流通した端切れが着物の裏地の一部や茶道の小道具の生地に用いられていた。その人気の更紗が、横浜開港によって輸入反物として容易に仕入れられるようになり、足袋地としても積極的に使われ始めたものと考えられている。 大正時代の行田では、静岡県浜松地方や福田、岡山県児島、山形県鶴岡など西方から赤色や紺色のコール天生地を仕入れた記録が残る。『福助足袋の六十年』によれば、大正時代中頃には紫や藤紫、海老茶色、納戸、オリーブ色など、単色無地の色足袋が製造されるようになり、全国的に流行したという。 また昭和時代の戦前期に、ハワイ移民向けに柄足袋を生産したと口伝されているが、史料では確認されていない。
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