船舶設計協会の設立へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 03:00 UTC 版)
「船舶設計協会」の記事における「船舶設計協会の設立へ」の解説
このように技術的な検討が進捗するのと並行して、来たるべき昭和28年度計画船の基本計画をどのような組織で実施するかが問題となった。基本設計を官(保安庁)自身で行うか、又は民間造船所に委嘱するかということについては、官が行うべきものとして庁内の意見は一致していたが、第二幕僚監部では、艦船の基本設計には用兵者の意見を採り入れる必要があり、そのためには第二幕僚監部が所管すべきである、と主張したのに対して、保安庁の内部部局側は技術研究所が所管することを主張した。結局、庁議において、艦船の基本設計は技術研究所が担当することと決定されたが、現実問題として、当時の技術研究所には艦船の基本設計能力がなく、外部委託が必要となった。 日本経済団体連合会(経団連)の艦艇生産部会では、経団連の外郭団体に艦艇協力会を設ける案が熱心に検討されたが、経団連としてはこれに保安庁の政策諮問機関をも兼ねさせようとする意向を持っていたのに対し、保安庁としては単なる技術集団としたいという根本方針をもっていたことから、実現しなかった。一方、保安庁装備局船舶課長の意を受けた造船工業会は、着々と運輸省所管の財団法人の設立準備を進めており、国際船舶工務所の設計陣をそのまま同法人に移行させる案が検討されるようになった。上記のように、国際船舶工務所は川南工業の川南豊作社長が株主となっており、当時、川南工業では設計能力の貧弱さが弱点となっていたこともあって、国際船舶工務所を手放すかは不安視されていたが、保安庁および牧野社長の要請を受けた川南社長は無条件で承諾し、1953年10月1日をもって国際船舶工務所は業務を閉じて社員は退職、同日付で船舶設計協会に就職した。なお、同協会の理事長には、丹羽周夫(にわ かねお)日本造船工業会会長が就任した。
※この「船舶設計協会の設立へ」の解説は、「船舶設計協会」の解説の一部です。
「船舶設計協会の設立へ」を含む「船舶設計協会」の記事については、「船舶設計協会」の概要を参照ください。
- 船舶設計協会の設立へのページへのリンク