背景・キーストン社退社
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「アルコール先生原始時代の巻」の記事における「背景・キーストン社退社」の解説
チャップリンは1914年2月に『成功争ひ』でデビューして以来、出演のたびに何かしらの変化を徐々に遂げていき、キーストン社に利益をもたらす少しばかりの「お偉方」にもなってはいた。このことはセネットをはじめとするキーストン社の人間ばかりか、チャップリン自身もおそらく想像していなかったし、『メーベルの身替り運転』のころには意見の対立から解雇の可能性もあった。1914年6月には故郷イギリスでもチャップリン映画が上映されるようになり、『ヴェニスの子供自動車競走』をはじめとする諸作品のイギリスでの評判も上々であった。 第一次世界大戦勃発(1914年7月28日)のころ、チャップリンはセネットと次のシーズンのギャラについての交渉を開始し、チャップリンは「週1000ドル」を要求するが、セネットは「僕だってそんなに貰ってないぜ」と言って拒否をした。ここでチャップリンは、自分が成功している現実を楯に新しい契約の締結を迫る。困ったセネットは側近と協議し、「1年目:週500ドル、2年目:週750ドル、3年目:週1500ドル」の3年契約をチャップリンに提示したが、チャップリンは「1年目:週1500ドル、2年目:週750ドル。3年目:週500ドル」なら契約を締結すると言ったため、セネットは「そんなばかな話があるもんか」といって契約の話はそれっきりとなり、契約満了をもってのチャップリンのキーストン社退社が確定した。チャップリンは、週1250ドルのギャラと1万ドルのボーナスを提示してきたエッサネイ社に移籍することとなった。 『アルコール先生原始時代の巻』は、そのような契約満了が迫る時期に製作され、チャップリンは編集の際に断続的に契約問題を思い出していたため編集に難儀したが、なんとか完成させることができたと自伝で回想する。編集を終えて2日後、チャップリンは新しい契約先のシカゴのエッサネイ社に向かったが、セネットをはじめとするキーストン社の人間に別れを言うことはできなかった。チャップリンがキーストン社で出演および製作した映画は合計36本。そのうち『彼女の友人である追いはぎ』はフィルムが現存しておらずチャップリンが出演していない可能性もあり、『泥棒を捕まえる人』は2010年に96年ぶりに表に出てきた。
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