義和団の乱での派遣部隊脚気流行とは? わかりやすく解説

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義和団の乱での派遣部隊脚気流行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:20 UTC 版)

日本の脚気史」の記事における「義和団の乱での派遣部隊脚気流行」の解説

トップ陸軍省医務局長が小池正直替わっていた1900年明治33年)、義和団の乱北清事変)が勃発し第5師団戦闘員15,780人、非戦闘員4,425人、兵站部員1,030人)が派遣された。そのときも、首都北京を巡る局地戦が主で輸送支障少なかったにもかかわらず前田政四郎(同師団軍医部長)が麦飯給与希望しながら麦が追送されなかったこともあり、1年ほどで2,351人の脚気患者出たちなみに戦死者349名、負傷者933名。 1901年明治34年5月31日凱旋した第5師団に代わって清国駐屯軍置かれたとき(北京議定書に基づき編成)、小池が同軍病院長に与えた訓示は、上記台湾平定戦時土岐独断麦飯給与したことに対し石黒発した麦飯給与禁止訓示とほぼ同じ内容であった。なお、上記前田は、『軍医学会雑誌』に続けて投稿1901年明治34年5月7月掲載)し、とりわけ7月投稿では遠回し表現米飯脚気原因という認識示した。しかし、翌1902年明治35年4月の『明治三十三年北清事変衛生事項ニ関スル所見』には、なぜか脚気のことを全く記述していない。そして日清戦争先陣務め義和団の乱でも唯一派遣され第5師団から、やや格下第11師団異動した

※この「義和団の乱での派遣部隊脚気流行」の解説は、「日本の脚気史」の解説の一部です。
「義和団の乱での派遣部隊脚気流行」を含む「日本の脚気史」の記事については、「日本の脚気史」の概要を参照ください。

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