義和団の乱での派遣部隊脚気流行
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「日本の脚気史」の記事における「義和団の乱での派遣部隊脚気流行」の解説
トップの陸軍省医務局長が小池正直に替わっていた1900年(明治33年)、義和団の乱(北清事変)が勃発し、第5師団(戦闘員15,780人、非戦闘員4,425人、兵站部員1,030人)が派遣された。そのときも、首都北京を巡る局地戦が主で輸送に支障が少なかったにもかかわらず、前田政四郎(同師団軍医部長)が麦飯の給与を希望しながら麦が追送されなかったこともあり、1年ほどで2,351人の脚気患者が出た。ちなみに戦死者349名、負傷者933名。 1901年(明治34年)5月31日、凱旋した第5師団に代わって清国駐屯軍が置かれたとき(北京議定書に基づき編成)、小池が同軍病院長に与えた訓示は、上記の台湾平定戦時に土岐が独断で麦飯を給与したことに対し、石黒が発した麦飯給与禁止の訓示とほぼ同じ内容であった。なお、上記の前田は、『軍医学会雑誌』に続けて投稿(1901年(明治34年)5月と7月に掲載)し、とりわけ7月の投稿では遠回しの表現で米飯が脚気の原因という認識を示した。しかし、翌1902年(明治35年)4月の『明治三十三年北清事変ノ衛生事項ニ関スル所見』には、なぜか脚気のことを全く記述していない。そして日清戦争で先陣を務め、義和団の乱でも唯一派遣された第5師団から、やや格下の第11師団に異動した。
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