継桜と秀衡伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 18:46 UTC 版)
継桜には秀衡桜ともよばれ、藤原秀衡にちなむ次のような伝説が伝えられている。奥州藤原氏の藤原秀衡が熊野に詣でた際、山中で夫人が産気づき男児を出産した。乳児を連れて参詣を続けるわけには行かず、熊野権現の夢のお告げを頼りに立願し、滝尻王子の裏手にある窟に赤子を残して参詣の旅を続けた。しかし、野中のあたりに差し掛かったとき、やはり我が子のことが気になり、それまでついてきた桜の枝の杖を地面に突き刺し、置いてきた赤子が無事ならこの桜も育つだろう、それが叶わなければこの桜も枯れるだろうと祈り、旅を続けた。帰路、ふたたび野中に着くと桜は育っており、喜んだ夫妻は道を急いだ。赤子は山の狼たちに護られて無事に育っていた。この子が後の和泉三朗忠衡である。 上述の『紀南郷導記』が伝えている秀衡と継桜にまつわる伝説は以上のようなものだが、地元の野中では若干の異同がある話を伝えている。野中での語り伝えによれば第1に、野中での語り伝えでは、秀衡が野中の地に突き刺したのは杖ではなく、近くにあった桜の木の枝である。第2に、秀衡が赤子を残した岩屋は乳岩と呼ばれる岩屋で、赤子は岩からしたたりおちる乳を飲んで命をつないだとされるが、『紀南郷導記』にはこの奇譚は見られない。また第3に、我が子を護った熊野権現の奇跡に感謝を表すために七堂伽藍を建立し、経典や武具を堂中に奉じたとするくだりは語られていない。『吾妻鏡』に陸奥国に新熊野社を勧請したとする記事があることから、秀衡が熊野を信仰していたことは確かだと見られるが、熊野に参詣した史実は確認されていない。 どちらであるにせよ、桜の接木はほとんど不可能であることから、戦前の植物学者・郷土史家の宇野縫蔵は、継桜の起源を、檜の古木が枯れて空洞化したところに桜が根付いたのだろうと考定している。こうしたことからすると、檜の台木に桜が継がれるという継桜の奇跡がまず先行し、次いで王子が設けられたり、熊野詣の功徳を説くために秀衡伝説が付会されるなどしたものであろう。
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