絵の始まり、炭鉱へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:24 UTC 版)
翌年、弟の初節句祝で贈られた加藤清正の人形を気に入り、何度も写生したことを自ら描いている。入学した立岩尋常小学校(現・飯塚市立立岩小学校)では、先生の目を盗んで絵を描いた。12歳の時には、西洋紙に描いた源平合戦などの絵本を作り、近所の子どもに売って画材や食べ物を買っていた。しかし家は貧しく、子守や父の手伝いで満足に通えないまま、小学校を卒業した。 小学校卒業後、1904年(明治37年)に山内炭坑(現・飯塚市)の鶴嘴鍛冶に弟子入りし、1906年(明治39年)に15歳で山内炭坑の炭鉱員となった。1912年(明治45年)1月4日には結婚したが、同年の徴兵検査は難聴で乙種免除となった。その後、1955年(昭和30年)に58歳で長尾位登炭鉱(田川市)の閉山で退職するまで、採炭員や鍛冶工員として、筑豊地方各地の炭鉱18ヶ所を転々としながら、日記や手帳にその記録を残した。この間も、一時期福岡市内のペンキ屋に弟子入りしたほか、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)に描いた安全週間のポスターが残っている。
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