統監政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 15:21 UTC 版)
1905年(明治38年)10月、日本政府は韓国保護権の確立の方針を閣議決定し、翌11月には伊藤博文を特使として派遣し、11月28日に第二次日韓協約の締結が強行された。これに先立ち、一進会は同年11月5日に「外交権を日本政府に委任し日本の指導保護を受け、朝鮮の独立、安定を維持せよ」という宣言書を発表している。 韓国統治の総責任者だった伊藤は早期の韓国併合に反対していた。しかし、1909年(明治42年)4月、伊藤は桂太郎、小村壽太郎との会談において、両人が提示した併合の方針について大綱を是認している。1909年(明治42年)10月、伊藤が満州のハルビンで安重根に暗殺された後、1910年(明治43年)5月に韓国統監(第三代)に就任した寺内正毅は、義兵の制圧と並行して、韓国併合への準備を進めた。
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