統合した町字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/19 01:56 UTC 版)
1956年(昭和31年)に以下の町字を統合。 並木(なみき) 1889年(明治22年)から1956年(昭和31年)までの大字。新川支流の大通川左岸に位置する。 もとは江戸時代から1889年(明治22年)まであった並木村の区域の一部で。開発年代は不詳。 槙岡村外新田(まぎおかむらほかしんでん) 1889年(明治22年)から1956年(昭和31年)までの大字。新川支流の大通川左岸に位置する。 もとは江戸時代から1889年(明治22年)まであった槙岡村外新田の区域の一部で、槇岡村外新田とも書く。 1645年(正保2年)並木村九十郎の開発と伝えられ、当初は九十郎新田と称した。1684年(貞享元年)に独立し、槙岡村新田村に改称。1846年(弘化3年)に槙岡村外新田に改称した。
※この「統合した町字」の解説は、「並岡 (新潟市)」の解説の一部です。
「統合した町字」を含む「並岡 (新潟市)」の記事については、「並岡 (新潟市)」の概要を参照ください。
統合した町字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/19 15:27 UTC 版)
1961年(昭和36年)に以下の町字を統合。 古志田(こしでん) 1889年(明治22年)から1961年(昭和36年)の大字。新川支流大通川右岸の蒲原低地に位置する。 もとは江戸時代から1889年(明治22年)まであった古志田村新田の区域の一部。1801年(享和元年)に漆山村から分村した。 寺潟(てらがた) 1889年(明治22年)から1961年(昭和36年)の大字。新川支流の大通川右岸に位置する。 もとは江戸時代から1889年(明治22年)まであった寺潟村新田の区域の一部。漆山村からの分村であるが、開発、独立年代は不詳。 下郷屋(しもごうや) 1889年(明治22年)から1961年(昭和36年)の大字。新川支流の大通川右岸に位置する。 もとは江戸時代から1889年(明治22年)まであった下郷屋村新田の区域の一部。1801年(享和元年)に漆山村から分村した。
※この「統合した町字」の解説は、「巻東町」の解説の一部です。
「統合した町字」を含む「巻東町」の記事については、「巻東町」の概要を参照ください。
統合した町字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/27 18:33 UTC 版)
1957年(昭和32年)に以下の町字を統合。 夏保新田(なつほしんでん) 1889年(明治22年)から1957年(昭和32年)の大字。中ノ口川下流右岸に位置する。 もとは江戸時代から1889年(明治22年)まであった夏保新田の区域の一部で、夏保村とも称した。 1678年(延宝6年)に検地。応永年間に信濃川の氾濫により被害を受け、さらに大地震により破壊されたため、1642年(寛永19年)に再開発される。 中高井(なかたかい) 1889年(明治22年)から1957年(昭和32年)の大字。中ノ口川下流右岸に位置する。 もとは江戸時代から1889年(明治22年)まであった中高井村の区域の一部。浄楽寺新田16ヵ村の1つで、1678年(延宝6年)に分村して成立した。 はじめは高井村の地籍に属する未開地だったが、青木兵右衛門が慶安年間に浄楽寺新田を開いたときに開墾。中高井と称した。 上高井(かみたかい) 1889年(明治22年)から1957年(昭和32年)の大字。中ノ口川下流右岸に位置する。 もとは江戸時代から1889年(明治22年)まであった上高井村の区域の一部。浄楽寺新田16ヵ村の1つで、1678年(延宝6年)に分村して成立した。 はじめは高井村の地籍に属する未開地だったが、青木兵右衛門が慶安年間に浄楽寺新田を開いたときに開墾。上高井と称した。
※この「統合した町字」の解説は、「根岸 (新潟市)」の解説の一部です。
「統合した町字」を含む「根岸 (新潟市)」の記事については、「根岸 (新潟市)」の概要を参照ください。
統合した町字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 14:48 UTC 版)
1984年(昭和59年)に以下の町字を統合。 上大原(かみおおはら) 1889年(明治22年)から1984年(昭和59年)まであった大字。鎧潟近くの低平地に位置する。 もとは江戸時代から1889年(明治22年)まであった上大原村の区域の一部。もとは木滑村の区域の一部で、寛永年間に上杉氏家臣であった笹崎甚右衛門が開発。1654年(承応3年)に木滑村から分村して成立した。 下大原(しもおおはら) 1889年(明治22年)から1984年(昭和59年)まであった大字。鎧潟近くの低平地に位置する。 もとは江戸時代から1889年(明治22年)まであった下大原村の区域の一部。寛永年間に開発が始まり、1655年(明暦元年)に針ヶ曽根村から分立して成立した。
※この「統合した町字」の解説は、「大原 (新潟市)」の解説の一部です。
「統合した町字」を含む「大原 (新潟市)」の記事については、「大原 (新潟市)」の概要を参照ください。
統合した町字
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 08:41 UTC 版)
「栄町 (新潟市西蒲区)」の記事における「統合した町字」の解説
1958年(昭和33年)に以下の町字を統合。 上中野(かみなかの) 1889年(明治22年)から1958年(昭和33年) の大字。新川支流の大通川、飛落川に挟まれた微高地に位置する。 もとは1880年(明治13年)から1889年(明治22年)まであった上中野村の区域の一部で、1880年(明治13年)に中野村が改称して成立。 中野村は寛永年間に開発されて成立した。 東津雲田(ひがしつくもだ) 1889年(明治22年)から1958年(昭和33年) の大字。新川支流の大通川、飛落川に挟まれた微高地に位置する。 もとは江戸時代から1889年(明治22年)まであった東津雲田村の区域の一部で、1652年(承応元年)に津雲田村の枝郷として開発された。 百穀(ひゃっこく) 江戸時代の村名。新川支流大通川と飛落川に挟まれた低平地に位置する。 幕末に馬堀村の一部になったとされる。
※この「統合した町字」の解説は、「栄町 (新潟市西蒲区)」の解説の一部です。
「統合した町字」を含む「栄町 (新潟市西蒲区)」の記事については、「栄町 (新潟市西蒲区)」の概要を参照ください。
- 統合した町字のページへのリンク