第1白ロシア戦線の進撃、ソビエト赤軍によるワルシャワ占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 15:50 UTC 版)
「ヴィスワ=オーデル攻勢」の記事における「第1白ロシア戦線の進撃、ソビエト赤軍によるワルシャワ占領」の解説
攻勢の北部戦区ではドイツ第9軍は首尾一貫した抵抗はすでに行えず、第1白ロシア戦線も急速に進撃していた。ワルシャワ後方に配置されていた第XXXVI装甲軍団は近隣の第2軍の戦区であるヴィスワ川へ押し戻された。A軍集団司令本部がワルシャワからの撤退命令を出したため、1月17日までにワルシャワは占領された。ソビエト第2親衛軍と第3打撃軍の部隊はワルシャワ蜂起の後、ドイツ軍によって荒らされたワルシャワを見て衝撃を受けていた。ヒトラーは「要塞(ワルシャワを要塞都市としており、放棄を認めていなかった)」の放棄に激怒、陸軍総司令部作戦部部長のボギスラフ・フォン・ボニーン(英語版)大佐を逮捕、第9軍と第XXXVI装甲軍団の司令官(スミロ・フォン・リュトヴィッツとヴァルター・フリースら)を罷免した。 1月18日、南の第8親衛軍がウッチに到着する間、第2親衛戦車軍はオーデル川へ押し進み、1月19日までにそれを引き継いだ。第1親衛戦車軍はポーゼンを包囲するために1月25日、移動を開始、翌日、第8親衛軍は都市へ激戦を交わしながら包囲するために進んだが、最後に占領されるまでポーゼン包囲戦(英語版)が激しく長く行われた。 第1白ロシア戦線北東で東プロイセン攻勢に参加している第2白ロシア戦線(司令官コンスタンチン・ロコソフスキー)の部隊は1月23日までにヴィスワ川河口の三角地帯でバルト海に到着、ドイツ中央軍集団を東プロイセンで孤立させることに成功した。
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