第五次・第六次・第七次イタリア戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 02:16 UTC 版)
「イタリアの軍事史」の記事における「第五次・第六次・第七次イタリア戦争」の解説
第四次までのイタリア戦争の結果、ナポリ・トリナクリア両王国が、スペイン(アラゴン=カステーリャ)や神聖ローマと共にハプスブルク家の同君連合として、強い結束で結ばれる事となった。また度重なるフランス軍の遠征を退け、ジェノヴァ・フィレンツェ・ミラノ・ヴェネツィア・教皇領が独立を維持した。しかしハプスブルク帝国の強い影響下での独立という点ではナポリ・トリナクリアと変わりなく、実質的にイタリア諸侯はハプスブルクの従属勢力となった。 その後もフランス軍とハプスブルク軍は同様にイタリア諸侯を巡る戦いを繰り返したが、それまでの戦いと違ってイタリア諸侯自体が大きく活躍する事はなくなった。 1535年にフランチェスコ・スフォルツァが跡継ぎを残さずに亡くなり、スフォルツァ家が断絶したことで始まった第五次イタリア戦争は休戦を挟み、第六次イタリア戦争へと繋がった。オスマン帝国を同盟に引き込んだフランス軍が優勢に戦いを進めたが、最終的にはハプスブルク軍に敗れてカトー・カンブレジ条約を締結した。同条約でミラノ公爵領は神聖ローマ皇帝が兼務するものとし、またフランスは他のイタリア諸侯に対する支配権主張も取り下げ、遂にイタリア戦争は終結した。 既に最初の戦争から50年近くが経過していたが、強大なハプスブルク帝国に従属を強いられたイタリア諸侯は、もはや欧州情勢の主導権を握れなくなった。
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