第二の家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 06:25 UTC 版)
「エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ」の記事における「第二の家族」の解説
アレクサンドル2世はエカチェリーナと子供たちを傍におくことを主張してはばからなかった。彼は週に3度ないし4度はエカチェリーナと会い、その時はエカチェリーナが警護官に先導されて冬宮殿の皇帝の居室にやってきた。それ以外の日は毎日手紙を書き、互いの愛情について語り合った。二人の関係は公然の秘密だったが、互いに本名で手紙を書くことはなく、2007年5月に二人の手紙は競売にかけられている。また、彼女の邸宅に赴き、彼女のヌードを自ら描くこともあった。1876年2月、エカチェリーナは第三子ボリスを妊娠した際、子供を冬宮殿で出産することを主張し、望み通り皇帝の居室でボリスを出産した。しかし、ボリスは生後数週間で風邪が原因で死亡した。 アレクサンドル2世の家族や宮廷は二人の関係を激しく非難し、「エカチェリーナは皇后の座を狙っている」とか「皇帝に自由主義を吹き込んでいる」などと中傷された。また、エカチェリーナがある実業家と関係を持っているという噂も立てられた。皇族の中には、アレクサンドル2世が愛妾エカチェリーナに産ませた子供に帝位継承権を与える可能性を恐れる者もいた。これらの批判を聞き、憔悴したアレクサンドル2世はヴュルテンベルク王国に嫁いだ妹オリガ王妃に宛てた手紙の中で、「彼女は、彼女の名前を利用しようとする者たちの試みにも関わらず、これらの問題に干渉しようとはしない。彼女は私と子供たちのためだけに宮殿に住んでいる」と記している。 エカチェリーナと子供たちはアレクサンドル2世から首都に邸宅を与えられていたが、後にエカチェリーナがテロの標的にされるのを恐れて、1880年に母子を冬宮殿の第三翼に住ませることを決めた。宮殿の侍従たちは、「マリア皇后は上階のエカチェリーナの子供たちが動き回る騒音に苦しめられている」という噂を広めたが、実際にはマリアの部屋はエカチェリーナの部屋からは距離があり騒音に悩まされることはなかった。マリアは自身の子供とエカチェリーナを面会させることを提案し、エカチェリーナは彼女の子供ゲオルギーとオリガと面会した。エカチェリーナは子供たちを祝福してキスを交わし、それを見た皇帝夫妻は涙を流したという。 アレクサンドル2世は、「死の床にある皇后が死ねばすぐにでもエカチェリーナと結婚する、なぜなら自分はいつ暗殺されてもおかしくないので、エカチェリーナとその子供たちに何らかの保障を与えねばならないからだ」と家族に宣言した。皇帝の家族や皇族たちはこの言葉に激怒したが、アレクサンドル2世は宣言を受け入れるように強制した。
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