競馬とのかかわり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 07:06 UTC 版)
府中市に東京競馬場がある土地柄、1953年頃からおもに会社名義で競走馬を所有するようになった。馬券をよく買っていた兄・演植は生前、馬主になるときに父親から反対され「馬は持っても、馬券は買うな」と言われて悩んだと語っている。 中央競馬におけるさくらコマースの勝負服の色はピンクがベースで、競走馬名に「サクラ」の冠名を用いていることから、のちに同社の所有馬の総称としてサクラ軍団という名称が生まれた(このような例はメジロ・マチカネ・マイネルなど他にもある)。社名から冠名を取っている。 軍団最初の勝ち馬となったのはハヤサクラという名前のアングロアラブだった。その後次第に頭数も増え、重賞クラスで健闘する馬も登場し始め、1973年にサクライワイが初の重賞勝ち馬となった。以降GI優勝馬を含め、数多くの重賞優勝馬を所有している。 かつてのサクラ軍団の競走馬は美浦の境勝太郎厩舎に所属し、境勝太郎の娘婿でもあった小島太が騎乗することが非常に多かった。これは境と小島が全演植と親しかったことが影響している。しかしサクラのすべての馬が該当したわけではない。サクラショウリやサクラスターオーは境厩舎の馬ではなかったし、サクラスターオーには小島はほとんど騎乗していない(そのころの小島が、早坂太吉率いる「モガミ軍団」に気が移りかけていたという事情があり、それに対して全が不快感を示した結果)。また境の息子の境征勝の厩舎に所属する競走馬もいた。騎手については小島のほか、東信二や境勝太郎厩舎所属の木藤隆行や高橋明らも多く起用されていた。 境勝太郎が調教師を引退し、小島が調教師に転向した1996年頃からは「サクラ=境・小島」という大方の構図は必ずしも当てはまらなくなった。その要因のひとつとして、小島がさくらコマース以外の馬主(西川清など)の所有馬を多く管理するようになったことが挙げられる。現在、さくらコマースの所有馬は栗東、美浦を問わずさまざまな厩舎で管理されている。 またサクラ軍団は地元の東京競馬場での勝利が目立ったが、境勝太郎の調教師引退以降は東京競馬場での重賞競走に縁がなく、サクラキャンドルが府中牝馬ステークスを勝利した後は、サクラセンチュリーがアルゼンチン共和国杯を勝利するまで9年の空白期間があった。
※この「競馬とのかかわり」の解説は、「さくらコマース」の解説の一部です。
「競馬とのかかわり」を含む「さくらコマース」の記事については、「さくらコマース」の概要を参照ください。
- 競馬とのかかわりのページへのリンク