立田知事による県庁と翼賛会支部の一体化構想
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「特高課長講演問題」の記事における「立田知事による県庁と翼賛会支部の一体化構想」の解説
翌1941年に入ると、立田は県庁と翼賛会支部は表裏一体となって新体制の確立を進めるものであると公然と主張するようになった。当時、中央ではいまだに一国一党制を進める「政事結社」か行政の補助組織として戦時体制確立を進める「公事結社」なのかで紛糾している最中であったが、いち早く立田は革新派を中心とした新体制運動を翼賛会支部から排除して県庁(すなわち知事である立田自身)とこれを支持する政財官の各層を中心に据えた「公事結社」化を進めることを公言したのである。すなわち、県庁内に翼賛会との連絡を担当する専門部署(振興課)を設置するとともに、行政主導の連絡会議の開催を行って翼賛会に参加する地域の「名士」や諸団体に立田が推進する県庁の方針(行政補助機関としての大政翼賛会の地方組織の形成)を徹底させたのである。これによって右翼らの動きに警戒心を抱いていた県庁・県議団・市町村長といった既存権力組織の動揺を鎮めて、知事への支持を集めて県庁と翼賛会支部の一体化を推し進めることになった。 一方、中央でも2月に入ると、近衛文麿首相が大政翼賛会を「公事結社」とする見解を出して事実上新体制運動との決別を宣言して、4月1日の組織改正で支部長は知事の兼務とする行政補助組織化が正式に定められた。これは、大政翼賛会とこれを支援する新体制運動によって権限を奪われることを恐れていた内務省と地方の知事・議会を安堵させた。だが、千葉県においては立田知事が事実上の翼賛会支部長であり、結果的には中央や他県の方が立田の方針の後追いをすることになったのである。
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