移動坐禅堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:51 UTC 版)
1919年に彼は宗演が遷化したとの知らせを受けた。この時彼は『101の禅話』を編纂した。 1922年には、禅を講義・実践する場所を借りる費用の目途が着いた。彼は場所から場所を移動して講義し続けた。1927年までに移動坐禅堂を開発した。移動中に持って行く物は文殊菩薩の写真1葉だけだった。 結局、何人かの参禅者の支援を受け、彼はサンフランシスコ内にアパートを借りた。 この間に日本から兄弟弟子の古川尭道が教えに来た。 1930年代にはロサンゼルスに移動し、またアパートを借りつつ移動坐禅堂を続けた。すると、そこの日系人社会と親しくなった。 1932年には知的障害の息子を持つ棚橋キンという日系人女性を助けた。彼は貸間と食事を引き換えにその子の世話をした。彼に中川宋淵の俳句を伝えたのは、棚橋夫人だった。中川の俳句に彼は非常に感銘を受け、その後連絡を取り合うようになった。 太平洋戦争勃発後、彼は何万人もの日系人と共にワイオミングのハートマウンテン移住センターで過ごした。 戦後はロサンゼルスに戻り、移動坐禅堂を続けた。残りの人生を禅の普及に情熱を持って注いだ。この時の教え子の中に、ロバート・ベーカー・アイトケンやサミュエル・ルイスと、徐京ボウがいる。更に彼は中川宋淵から日本の僧堂生活になじめない若い僧も預かった。 彼は1958年5月7日に81歳で遷化した。最後の言葉は「法を忘れるな、法を忘れるな、法を忘れるな」だった。
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