秦相として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:45 UTC 版)
秦に入った范雎は王稽から昭襄王に推挙されたが、登用されなかった。 当時、秦の宰相は穣侯魏冄で昭襄王の母の宣太后の弟であった。穣侯は絶大な権力を誇り、名将の白起を使って周囲の国々を何度も討って領土を獲得していた。しかしその領土は穣侯や穣侯と同じく太后の弟の華陽君羋戎、あるいは昭襄王の弟の高陵君・涇陽君などが取ってしまい、その財産は王室よりも多かった。 1年余りを昭襄王に迎えられないまますごした范雎は、昭襄王に対して「とにかく試してください。良ければ用い、悪ければ打首にされても構いません。ただただ王様のことを思っているのです」と手紙を書いて自分の意見を聞いてくれるように訴えた。これを受けて昭襄王は范雎を招いた。謁見するにあたり范雎は後宮へと入り込み、怒った宦官が「王のご到着だ」と言って追い払おうとしたが、范雎は「どうして秦に王がいようか。いるのは太后と穣侯だけだ」と言い放った。 昭襄王はそれを全く不問とし、范雎を迎え入れて話を聞こうとした。しかし盗み聞きするものがいたので、范雎はまず外事について説いた。曰く「穣侯はいま韓や魏と結んで斉を討とうとしているが、これは間違いです(仮に勝って領土を奪ってもそれを保持することができないため)。それよりも遠く(趙・楚・斉)と交わり、近く(魏・韓)を攻めるべきです。そうすれば奪った領土は全て王のものとなり、更に進出することができます」と。これが遠交近攻策である。 この進言を受け入れた昭襄王は、魏を攻めて領土を奪い、韓に対して圧迫をかけた。その成果に満足した昭襄王は、范雎を信任することが非常に厚くなった。そこで范雎は昭襄王に対して、穣侯たちを排除しなければ王権が危ういことを説いた。これに答えて昭襄王は太后を廃し、穣侯・華陽君・高陵君・涇陽君を函谷関の外へ追放した。こうして王権の絶対性を確立し、国家が一纏めとなった秦は、門閥の影響が大きい楚など諸国を着実に破っていくことになる。
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