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秋元礼朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/15 07:02 UTC 版)

 
秋元 礼朝
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 嘉永元年5月16日1848年6月16日
死没 明治16年(1883年6月13日
改名 五十橘(幼名)→礼朝
墓所 東京都台東区谷中の天王寺
群馬県前橋市総社町総社の光厳寺
官位 従五位下、但馬守、従四位
正四位
幕府 江戸幕府
上野館林藩主→館林藩知事
氏族 太田氏秋元氏
父母 父:太田資始
母:良(上杉斉定の六女、側室の子とも)
養父:秋元志朝
兄弟 太田資功礼朝内藤政挙太田資美
正室:戸田忠温の十一女)
養子:興朝
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秋元 礼朝(あきもと ひろとも)は、江戸時代末期(幕末)の大名上野館林藩の第2代(最後)の藩主。館林藩秋元家11代。

生涯

嘉永元年(1848年)5月16日、遠江掛川藩の第5代藩主・太田資始の五男として生まれる[1]安政6年(1859年)に館林藩主・秋元志朝の養子となり、元治元年(1864年)10月に養父が禁門の変により幕府から隠居させられたため、家督を継ぐ。慶応2年(1866年)に奏者番に任じられた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、飛び地領の河内から新政府軍に対して兵を派遣し、軍資金2万両を出して協力した。その功により明治2年(1869年)に賞典禄1万石を加増された。

明治2年(1869年)、版籍奉還により館林藩知事に任命されたが、明治4年(1871年)7月に廃藩置県で免官。同年9月に隠居し、養子の興朝に家督を譲る。明治16年(1883年)6月13日に死去。享年36。

大正4年(1915年)、正四位を追贈された。

系譜

父母

正室

養子

脚注

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 18頁。
当主
先代
秋元志朝
館林藩秋元家
11代
1864年 - 1871年
次代
秋元興朝



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