秀忠に仕え、大坂の陣へとは? わかりやすく解説

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秀忠に仕え、大坂の陣へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 14:01 UTC 版)

堀直之」の記事における「秀忠に仕え、大坂の陣へ」の解説

天正13年1585年)、堀氏家臣奥田直政(後の堀直政の子として越前北ノ庄生まれる。母は宮川秀定の娘で、後の自性院慶長3年1598年)、父と共に越後国入り主君堀秀治より8000石を給される慶長15年1610年)に主君堀氏除封されると一時信濃飯山藩であった兄の直寄のもとへ身を寄せ翌年江戸幕府2代将軍徳川秀忠拝謁し登用され書院番士となり、食禄300俵を賜る慶長19年1614年)、大坂冬の陣では兄・直寄に属して出陣先鋒務めた翌年大坂夏の陣では再び兄の先鋒をつとめ、道明寺の戦い大坂方の薄田兼相討ち取る。後に兼相の母より、この時の敵将薄田兼相であると伝えられ懇ろに菩提弔ったといわれる。 続く天王寺の戦いでは大坂方の真田信繁毛利勝永らの軍に押され、直之を殿軍として一旦後退するも、殿軍の直之の奮戦により盛り返した。直之は敵中深く入り込み手傷負い疲労極限達し自刃をも覚悟したが、ここで敵の一角崩れ家臣達が突入してきた。直之は「われ鬼籍をまぬがれたり」と叫び、さらに奮戦した、と伝わる。この軍功により、武蔵八幡山1000石を賜り使番となった

※この「秀忠に仕え、大坂の陣へ」の解説は、「堀直之」の解説の一部です。
「秀忠に仕え、大坂の陣へ」を含む「堀直之」の記事については、「堀直之」の概要を参照ください。

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