福沢諭吉との関係
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木村喜毅の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福沢諭吉は、船酔いもせず病気もしなかった。一方、海舟は伝染病の疑いがあったため自室にこもりきり艦長らしさを発揮できなかった。諭吉はそれをただの船酔いだと考えていたようで、海舟を非難する格好の材料としている。また、海舟の方も福沢諭吉にあまりいい印象を抱いていなかったとされる。
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福沢諭吉との関係
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大隈の回想によれば、当初福澤諭吉は大隈のことを「生意気な政治家」と嫌っており、大隈のもとに挨拶に行こうとしなかった。このため大隈は福沢を「傲慢な奴」と言って互いに会うことを避けていた。ある日、大隈はある会合に出向くと、そこに福沢がおり、話してみると2人は意気投合したという。福沢は明治11年(1878年)、慶應義塾の経営打開のため政府から25万円の無利子融資を受ける交渉を行っているが、この仲介役となったのが大隈であった。また福沢は仲介を行っていた炭鉱売却事業に、大隈の介入を要請して成功させている。大隈の側近となった矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅は慶應義塾出身であった。 明治十四年の政変では、大隈は福沢と連携したと見られて失脚し、矢野、尾崎、犬養らも下野することになった。しかしこの事件によって、かえって福澤との絆は堅固なものとなり、政変後に設立された東京専門学校の開校式には福澤の姿があった。また、福澤の葬儀では福澤家は献花を断っていたが、大隈からの献花に対しては黙って受け取った。
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