祭主職をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:26 UTC 版)
「河辺家 (大中臣氏)」の記事における「祭主職をめぐって」の解説
嗣子なき定長が病気になり、大宮司の職を執行できなくなると、定長は二条家諸大夫北小路俊臣の次男兼長を養子に取り、改姓させる。しかし、これに大宮司精長が「本来祭主職は世襲制ではないこと、世襲のため異姓の者を養子にすることは神宮の神慮に適わないこと」を指摘して異を唱えた。この訴えは取り上げられることなかったが、それでも精長は訴え続けた。そうしているうちに、定長は病状が悪化し、ついに明暦2年(1656年)11月6日死去してしまった。定長死去後も、後継祭主は定められなかった。兼長も自身の正統性を訴え出るがなかなか決着せず、父の勅勘に連座して近江に流されていた藤波景忠を任じることになった。 祭主職の条件として、大中臣氏であること、そしてそのうち二門の者であることがあった。他門の者を任じれば不吉なことが起こるとも言われたが、この時期には後者が重視されず、友忠の後継として定長を任じたが、結局定長没後三年も後継祭主が定められない事態になり、朝廷もこの条件を改めて重視したのである。これに、精長は自身の子である故長を後継祭主に推薦し、改めて反発した。しかし、朝廷は既に決定した事項としてこれを退け、祭主は藤波家の世襲となった。河辺家の者が以降祭主となることは無く、大宮司の世襲に落ち着いた。
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