神辺城の孤立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:47 UTC 版)
同年11月、元就の三男徳寿丸(後の小早川隆景)が竹原小早川家の当主となり、小早川氏は毛利一門に組み込まれた。これに先立つ8月頃に大内氏より竹原小早川氏に対して、神辺城の南東にある五箇庄(大門・引野・能島・野々浜・津之下)を押さえて城を築くよう指示されている(小早川家文書之二)。これは、現在は埋め立てられているが、当時の大門湾にあった港が備中国の尼子方勢力との中継点であったため、水軍を持っていた小早川軍による海からの攻略が狙いであった。 天文15年(1546年)ないし翌16年に、竹原小早川軍は大門湾周辺の手城島城や明智山城を落とし、大門湾周辺の占拠に成功する(この時、大内軍の本陣は沼隈郡鞆に置かれており、徳寿丸も在陣していたとも言われている)。重要な支城を失った山名軍は、神辺城と大門湾の中間に位置する坪生庄の竜王山(現・清水山)に出城(坪生要害)を築いて対抗したが、天文16年(1547年)4月28日には坪生要害も陥落。この戦いに関する感状の幾つかに「隆景」の署名があるため、この時期に徳寿丸は元服し、坪生要害攻めで初陣を飾ったとされる。 同時に、大内・毛利の主力軍は陸路で神辺城を目指した。12月下旬には、国境まで近づいてきた尼子氏の救援軍を、大内家臣小原隆言が退ける。山名家家老の杉原盛重の奮戦もあって、神辺城の攻略にこそ至っていないものの、外郡に加えて内郡(うちごおり=備後国北部の内陸地域)も大内軍の勢力下となり、神辺城は孤立した。
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