神路大橋の開通と倒壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:32 UTC 版)
「神路 (中川町)」の記事における「神路大橋の開通と倒壊」の解説
村内では天塩川に多くの橋が架橋されるようになったこのころに至っても、神路地区は左岸側(ホロモイ 国道40号)と右岸側(神路駅)は渡船で結ばれているのみで、ホロモイに入植した人々は児童の通学や駅への物資の運搬に不便があった。このため、中川村ではこのことや災害頻発を受けた営農意欲維持への対策として当地への永久橋架橋を計画し、農林省(当時)へ陳情をつづけていたが、1962年(昭和37年)10月にようやく農林省開拓予算により、左岸の国道40号と右岸の駅側とを結ぶ吊り橋、神路大橋(125m)が着工され、翌1963年(昭和38年)3月に完成、同年5月20日に開通した。 しかし、この神路大橋は開通からわずか7ヶ月後の同年12月18日午後11時ごろ、神居山から吹き降ろす突風により落橋した。 この落橋が動機となり、営農が困難になった住民6戸は道と町の離農手当を受け1965年(昭和40年)に撤退を決定し、同年6月30日で神路小学校も廃校(翌日付で佐久小学校と統合)となった。最終的に神路の住民は右岸側に国鉄職員11人と農家1戸だけとなったが、1967年(昭和42年)に最後の農家が撤退した。その後は神路駅と官舎だけが残っていたが、のちに鉄道官舎も消滅して国鉄関係職員も音威子府からの通勤となり、神路地区は無人地区となった。
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