神判の存在意義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 15:26 UTC 版)
科学捜査など望むべくもない時代において、事件の犯人を知る手段は限られていた。とにもかくにも「一件落着」させる現実的方法の需要があった。それぞれの立場で神判を必要としている人々がいたのである。 神判はキリスト教にとっては、有力な布教のツールであった。もとは当地の風習と折り合うために容認したものであったが、聖職者が神判を主宰することで、神判は身内の儀式ではなく社会的拘束力を持つ裁判手続となりえた。神判で有罪か否かを判定してみせることで、キリスト教の神の正しさ・優位性を人々に示すことができた。 王や諸侯といった世俗支配者は、神判を便利な道具として活用していた。神判を行う場所や立ち会いを規定することは、王の権力を分かりやすく見せつける一種のプロパガンダ効果があった。それどころか、政敵に嫌疑をかけて神判を強制することすら行われた。 民衆のレベルでは、中世当時に合理的思考はほとんど浸透しておらず、世界のできごとや自然現象はすべて神の意志によるものと考えられていた。近代的な意味での真実など求められてはいなかったのである。神判のような儀式で罪の有無を決することは、当時の人々にとって、まことに正しきことであり、何より神判は証拠や雪冤宣誓などよりずっと盛り上がるイベントであった。 神判以外に有罪無罪を決するには雪冤宣誓がしばしば利用されたが、この宣誓に対しては根強い不満があった。特に貴族階級が集団でフェーデの名のもとに盗賊まがいの乱暴狼藉を働き、その彼らが仲間内で雪冤宣誓の人数を揃えれば無罪となる。当時の人々もこれは容認するところではなく、神判は雪冤宣誓への不満を解消する良い方法なのであった。
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