神倉本願
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/24 02:37 UTC 版)
鎌倉期には、法燈国師覚心が母とともに住んだと伝えられ、この時期からは臨済宗に属するようになった。覚心は臨済宗法燈派の開祖である一方、聖や比丘尼の組織化を図ったと言われる。妙心寺もその影響下で、神倉聖や熊野比丘尼を統率する神倉本願になったと考えられている。『紀伊続風土記』にあるように、神倉神社の造営修理を担う神倉本願には妙心寺(妙心尼寺)の他に、華厳院(金蔵坊)・寶積院・三学院があり、他の3つの寺院はいずれも修験兼帯寺であった(「妙心寺由来」)。しかし、南北朝期の動乱で荒廃した神倉神社の復興に際しては、もっぱら妙心尼寺が勧進権を掌握した。延徳元年(1489年)には、妙心尼寺の妙順尼が神倉神社の再興のための勧進を行い、さらに大永年間(1521年 – 1528年)から享禄4年(1531年)まで弟子の祐珍尼らとともに諸国を巡って奉加を募り、これによって再興を成し遂げた。この功績により、天文元年には本願職が改めて許された。天正16年(1588年)10月16日には、豊臣秀長の木材奉行の放火により神倉神社が焼失した。翌年には祐心尼のほか、金蔵坊祐信(当山派)および熊野新宮の楽浄坊行満(本山派)の2人の修験者の協力を得て西国9ヶ国に勧進に赴いている。
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