社会の科学の授業書の開発
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「仮説実験授業」の記事における「社会の科学の授業書の開発」の解説
「量率グラフ」も参照 板倉は1980年代から「社会の科学」の授業書を次々に作り出した。板倉は「社会科学」という呼び方を意識的に避けて「社会の科学」としている。これは「日本でも世界でも、社会科学では実験概念が確立していない」から「社会科学はほんとうの科学と言える段階ではない」と考えたからである。板倉は「仮説実験授業を提唱したとき、社会の科学を対象としていた」と述べ、「社会の科学を作るにしてもそのモデルは自然科学だ」としている。 最初に作られた社会の科学の授業書は1980年の「日本歴史入門」である。その問題1では「沢田吾一の研究によると奈良時代(700年代)の人口はどのぐらいあったと思いますか」を子どもたちに選択肢を与えて予想させている。この授業書は日本の歴史を扱っているが、普通の教科書と違って人名などの固有名詞はほとんど出てこなかった。板倉は人口と米を中心に日本史を概観し、長期統計の変化から時代区分をイメージする授業書を作成した。板倉は未知のことを知るため、未来のことを考えるために、仮説を立ててから、明確な数量を探して求めて実験し、特に「人口」「米」「お金」「国旗」「木綿」「自動車」などのモノに目をつけて数量化し、グラフ化して結果を得た。板倉の社会の科学の授業書は「モノで見た歴史や経済史」になっていた。 科学史研究から自然科学の授業書が作られたのと同じように、板倉自身の認識論を使って大事な法則やイメージを発見していく「社会の授業書」を作った。これが板倉の社会の科学の特徴となっている。このように、板倉によって「社会の科学」という実験科学が成立したと考えることができる。
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