石田流の誕生とは? わかりやすく解説

石田流の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 22:44 UTC 版)

石田流」の記事における「石田流の誕生」の解説

江戸時代中期盲目棋士石田検校生み出したといわれる石田実戦譜も残っているが、いずれも石田負け終わっている。 俳人各務支考の「将棋の賦」という文章に「さて角行物の影に扣(ひか)えて千里の外の勝を窺ふ。いづれの時よりか石田といへる馬組(こまぐみ)に、香車道に身を隠し、おほくは金銀と引組、飛車のために命を惜しまず死後の勇気をふるふより、かの仲達遥かに恐れつべし。」とあり、明治文豪幸田露伴がそれに付した注釈将棋雑話)に「石田といへる馬組(こまぐみ)は石田検校案じ出せ陣法にして、敵の未だ戦意を発せざるに乗じ、急(にわか)に突撃悪闘して我が上将を失ふも顧みず只管ひたすら敵陣粉砕する主とする者なり。されば此段我が角行死して却つて敵陣の大(おおい)に乱るる様を云へるにて、三四句の中に能く石田陣法戦略説き尽せり」とあるように、一般にもよく知られ戦法であった石田流対策としては棒金が有効であることもよく知られており、古川柳にも「尻から金とうたれで石田負け」(誹風柳多留棒金石田流崩され負けることと、小早川金吾秀秋)に攻められ石田三成関ヶ原の戦い敗れたこととをかけた句)というものがあるほどである。 江戸時代定跡書には既に早石田石田本組棒金交換などの定跡掲載されており、また当時将棋所棋譜には升田幸三が後に升田式石田流思いつくヒントとなった実戦例(▲7五歩-▲4八玉と上がるもの)も存在していることが指摘されている。

※この「石田流の誕生」の解説は、「石田流」の解説の一部です。
「石田流の誕生」を含む「石田流」の記事については、「石田流」の概要を参照ください。

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