知多木綿の歴史
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知多半島における木綿生産が初めて記録されたのは、江戸時代初期の慶長年間(1596年-1615年)であり、この頃に駅伝制による江戸送りが開始されたとされる。知多半島では佐布里村が中心的な木綿産地だった。知多郡岡田村の木綿買次問屋である竹之内源助商店の創業は慶長13年(1608年)とされる。江戸時代初期には生白木綿(きじろもめん)が生産されていた。元禄年間(1688年-1704年)頃には木綿が一般に普及し、大規模な木綿問屋も生まれていった。 天明年間(1781年-1789年)には、岡田村の中島七右衛門らが生白木綿に晒の技術を導入した。この頃、知多半島産の木綿が江戸に出荷される際には、必ず伊勢国白子を経由しており、伊勢晒または松阪晒として江戸に送られていた。ところが、文化・文政年間(1804年-1829年)には知多晒が伊勢晒とは別個の産地として確立し、知多晒の江戸市場での流通量は飛躍的に増加した。知多晒はその白さや風合いの良さで評判であり、「機を織れない娘は嫁に行けぬ」とまで言われた。知多木綿の生産量は、天保元年(1831年)には20万反、嘉永年間(1848年-1855年)には45万反もあったとされている。最盛期には知多木綿の70%が岡田村で扱われたとされる。 近代の愛知県は全国的に知られる綿織物産地であり、明治中期には岡田村の竹内虎王が動力織機を発明したが、竹内虎王の動力織機は豊田佐吉による自動織機に敗れている。1889年(明治22年)には知多郡の生産高が中島郡を抜いて県内第1位となり、やがて全国一の綿織物となっていった。昭和初期には知多(愛知県)、松阪(三重県)、泉州(大阪府)が「日本の三大綿織物生産地」と呼ばれた。太平洋戦争後にはアジア諸国に綿織物生産の場が移り、知多木綿は衰退していった。
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