知多木綿の歴史とは? わかりやすく解説

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知多木綿の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 08:52 UTC 版)

知多木綿」の記事における「知多木綿の歴史」の解説

知多半島における木綿生産初め記録されたのは、江戸時代初期慶長年間1596年-1615年)であり、この頃駅伝制による江戸送り開始されとされる知多半島では佐布里村中心的な木綿産地だった。知多郡岡田村木綿買次問屋である竹之内源助商店創業慶長13年1608年とされる江戸時代初期には生白木綿(きじろもめん)が生産されていた。元禄年間1688年-1704年)頃には木綿一般に普及し大規模な木綿問屋生まれていった。 天明年間1781年-1789年)には、岡田村中島右衛門らが生白木綿に晒の技術導入したこの頃知多半島産の木綿江戸出荷される際には、必ず伊勢国白子経由しており、伊勢晒または松阪晒として江戸送られていた。ところが、文化・文政年間1804年-1829年)には知多晒が伊勢晒とは別個の産地として確立し知多晒の江戸市場での流通量飛躍的に増加した知多晒はその白さ風合い良さ評判であり、「機を織れない娘は嫁に行けぬ」とまで言われた。知多木綿生産量は、天保元年1831年)には20反、嘉永年間1848年-1855年)には45反もあったとされている。最盛期には知多木綿70%が岡田村扱われとされる近代愛知県全国的に知られる綿織物産地であり、明治中期には岡田村竹内虎王動力織機発明したが、竹内虎王動力織機豊田佐吉による自動織機敗れている。1889年明治22年)には知多郡生産高中島郡抜いて県内第1位となり、やがて全国一の綿織物となっていった。昭和初期には知多愛知県)、松阪三重県)、泉州大阪府)が「日本三大綿織物生産地」と呼ばれた太平洋戦争後にはアジア諸国綿織物生産の場が移り知多木綿衰退していった。

※この「知多木綿の歴史」の解説は、「知多木綿」の解説の一部です。
「知多木綿の歴史」を含む「知多木綿」の記事については、「知多木綿」の概要を参照ください。

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