真犯人の捜索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 08:52 UTC 版)
控訴審判決日の夜にAは、こうなった以上は1年半後に釈放されてから自分で真犯人を探し出すより道はない、との覚悟を語った。これを聞いた鈴木も、このままAを服役させておめおめと弁護士を続けることはできない、もしも有罪が覆らなければ、自分は帰郷して農民に戻る、と決意した。そして鈴木は、もはや裁判で勝ち目はないと知りながら、ただ時間稼ぎのためだけに、翌5月1日に上告を申し立てた。 私が此の世の中から姿を消せば、〔弟妹達が〕将来幾分とも、幸せになれるのではなかろうかと思いペンを持ち涙を流したこともあつたのであるが、しかし、幼い妹達のことを考えると、可愛さに死の気持ちは一変に崩れて死んではならない、仮令、前科者の汚名を着てもこの親弟妹には信じて貰えるのだから、絶対に生きなくてはならない、まして貧乏の我が家のことで蓄えは無かつた。〔中略〕 この半年足らずの間に最後まで調べ尽すことだ。死んだ気持ちで調査に当れば、どんなことでも辛抱出来るはずだ、岩の下草の根をかき分けても犯人を探し出し裁判官の目の前に突き出し潔白の明しを立てようと覚悟は決つても現実は簡単に行かなかつた。 — 1954年(昭和29年)にAが静岡地検へ宛てた感想録より 自力で真犯人を探し出すと決意したAと鈴木が最初に疑いを向けたのは、書留の本来の宛先である富士合板であった。2人は富士合板の従業員70人分の筆跡を「いろいろと手をつくして」入手したが、犯人の筆跡に近いものはなかった。従業員らの顔写真を、見合い話を作り出してまで収集したが、それらしき人相の者も見つからなかった(この頃の捜査についてAは「疑つた点だけでも申し訳なく思つているので、詳細については記したくない」と、多くを語らない)。
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