真幸院攻略〜木崎原の戦い
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「伊東義祐」の記事における「真幸院攻略〜木崎原の戦い」の解説
永禄元年(1558年)、長きに渡り姻戚関係を続けていた北原氏の家督継承問題に介入、北原兼守に嫁ぎ未亡人となった娘の麻生を、北原庶流の馬関田右衛門佐に娶せるとして、事実上の乗っ取りを画策した。翌永禄2年(1559年)3月17日、義祐はその反対派を都於郡城へ呼び寄せて詰問し、その帰り道である六野原で取り囲んで粛清すると、右衛門佐と麻生の婚姻を敢行して北原氏の領地の全てを奪い取った。しかし永禄5年(1562年)、島津貴久と相良義陽、北郷時久が北原氏の旧領回復に協力したため奪い返される。これに義祐は、密かに相良氏と同盟、永禄6年(1563年)に共に大明神城を攻め落とし、永禄7年(1564年)には北原氏に従属する大河平氏の今城を攻め取った。その後、北原氏は離反者が相次いだために、真幸院の飯野地区以外は再び伊東氏の領地となる。 真幸院が肥沃な穀倉地帯であること、また日向の完全なる支配にはどうあっても飯野地区攻略が不可欠であったため、永禄9年(1566年)に飯野地区攻略の前線基地として小林村に三ツ山城(後の小林城)を築城させる。だが、これを知った島津義久らが城の完成する前に攻撃を仕掛けてくる。須木城からの援軍もあり、城主の米良重方は苦戦しながらもこれを撃退する。 永禄11年(1568年)、飯野地区への攻略に乗り出し、菱刈氏攻略中で留守の島津義弘の飯野城を伊東祐安に攻めさせたが、義弘がこれに気付いたため睨み合いとなり、飯野・田原陣に桶平城を築城し佐土原遠江守を入れ駐屯させる。しかし、遠矢良賢らの釣り野伏せに掛かるなど成果は上がらず、また家督を譲っていた次男・義益の急死もあり、やむなく桶平城に火を放ち軍勢を撤退させる。だが、桶平城は菱刈・相良両氏支援のための城でもあったにも関わらず、相良氏に一切通告しないまま撤兵したことから相良氏の遺恨を買うことにもなった。 そして元亀3年(1572年)5月、島津貴久の死去と肝付氏の侵攻により動揺している島津氏の加久藤城を相良義陽と連携して攻めた際に、伊東側は3,000の軍勢がありながら、島津義弘率いる300の軍勢に敗れる(木崎原の戦い)。伊東祐安、伊東祐信ら五人の大将をはじめ、落合兼置、米良重方など伊東家の名だたる武将が討死してしまった。これ以降、真幸院攻略の戦いは頓挫することとなる。
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