真幸院攻略〜木崎原の戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 真幸院攻略〜木崎原の戦いの意味・解説 

真幸院攻略〜木崎原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 00:37 UTC 版)

伊東義祐」の記事における「真幸院攻略〜木崎原の戦い」の解説

永禄元年1558年)、長きに渡り姻戚関係続けていた北原氏家督継承問題介入北原兼守に嫁ぎ未亡人となった娘の麻生を、北原庶流馬関田右衛門佐娶せるとして、事実上乗っ取り画策した。翌永禄2年1559年3月17日、義祐はその反対派都於郡城呼び寄せて詰問し、その帰り道である六野原で取り囲んで粛清すると、右衛門佐麻生婚姻敢行して北原氏領地全て奪い取った。しかし永禄5年1562年)、島津貴久相良義陽北郷時久北原氏旧領回復協力したため奪い返される。これに義祐は、密かに相良氏同盟永禄6年1563年)に共に大明神城攻め落とし永禄7年1564年)には北原氏従属する大河平氏今城攻め取ったその後北原氏離反者相次いだために、真幸院飯野地区以外は再び伊東氏領地となる。 真幸院肥沃な穀倉地帯であること、また日向の完全なる支配にはどうあっても飯野地区攻略不可欠であったため、永禄9年1566年)に飯野地区攻略前線基地として小林村三ツ山城(後の小林城)を築城させる。だが、これを知った島津義久らが城の完成する前に攻撃仕掛けてくる。須木城からの援軍もあり、城主米良重方苦戦しながらもこれを撃退する永禄11年1568年)、飯野地区への攻略乗り出し刈氏攻略中で留守島津義弘飯野城伊東祐安攻めさせたが、義弘がこれに気付いたため睨み合いとなり、飯野田原陣桶平城築城佐土原遠江守入れ駐屯させる。しかし、遠矢良賢らの釣り野伏せ掛かるなど成果上がらず、また家督譲っていた次男・義益の急死もあり、やむなく桶平城火を放ち軍勢撤退させる。だが、桶平城刈・相良両氏支援のための城でもあったにも関わらず相良氏一切通告しないまま撤兵したことから相良氏遺恨を買うことにもなった。 そして元亀3年1572年5月島津貴久死去肝付氏侵攻により動揺している島津氏加久藤城相良義陽連携して攻めた際に、伊東側は3,000軍勢ありながら島津義弘率い300軍勢敗れる(木崎原の戦い)。伊東祐安伊東祐信五人大将をはじめ、落合兼置米良重方など伊東家名だたる武将討死してしまった。これ以降真幸院攻略戦い頓挫することとなる。

※この「真幸院攻略〜木崎原の戦い」の解説は、「伊東義祐」の解説の一部です。
「真幸院攻略〜木崎原の戦い」を含む「伊東義祐」の記事については、「伊東義祐」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「真幸院攻略〜木崎原の戦い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「真幸院攻略〜木崎原の戦い」の関連用語

1
12% |||||

真幸院攻略〜木崎原の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



真幸院攻略〜木崎原の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの伊東義祐 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS