看護の道を志す
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1935年(昭和10年)3月の卒業間近、級担任から赤十字の学生募集について紹介を受ける。「女でお国のために尽くせる唯一の道」と受験を決意、これが半生の職業となる「看護」への転機であった。時世は満州事変から日中戦争へと向かう過渡期、日本は準戦時体制下にあった。そのような中、名門の第一高等女学校を出て看護の道に進むことは、家族の深い理解と協力がなければ困難な時代でもあり、また相当勇気のいることであった。県立第一高等女学校を卒業すると日本赤十字社沖縄県支部救護看護婦養成所に入所する。 1938年(昭和13年)3月、赤十字の養成所を卒業後、しばらくは母校県立第一高等女学校の衛生婦(現在の養護教諭)また県立女子師範学校の衛生婦を兼務した。翌年日本赤十字社第95救護班要員として応召し、北九州市の小倉陸軍病院へ配属された。 1937年に支那事変が勃発し、日中の間では全面的な戦争状態となっており(日中戦争)、陸軍病院には満州、北支、南支など中国全土から次々と傷病兵が送られてきた。看護婦のなかでも赤十字の看護婦は新人でも責任の重い仕事を任され、ノブも重症病棟の管理責任者となった。「兵隊さん以上にやらなければ」と月二回の休日も自分の意思で返上し、夜勤明けの翌日はそのまま勤務するなど赤十字看護婦としての誇りを高く持ち、常に患者の救護を第一に考え行動した。4年8か月にわたる小倉陸軍病院での献身的な勤務が評価され1940年(昭和15年)4月に勲八等瑞宝章が授与された。
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