直訴 - その後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/16 12:26 UTC 版)
小向に移住した一族であったが、この地も年々よく水害を被り、穀物などは十分に収穫できなかった。そのため、9代目の長太夫・源衛は年貢の軽減を請願するために「願い書」を書き記し、第3代将軍・徳川家光に直訴した。長太夫と源衛は30回あまり嘆願を行い、これによって前述の石高は全て免下げ(年貢の軽減)を許可された。 「願い書」の控えなどは貴重な宝として保存していたが、1849年(嘉永2年)12月4日、火災により家とともにことごとく焼失した。しかし、「願い書」に捺印した印鑑のみは半焼の状態で灰の中から発見され、現在(編纂当時)まで存在している。長太夫と源衛は直訴の際、先祖の大屋遠江守の墓である五輪塔に松と榎を植え、この松は笠の形の大木となった後(編纂当時から)96 - 97年前まで枯れ木となっており、榎は1867年(慶応3年)まで残っていたが家の没落により売り払われて切り株のみとなった。また、長太夫は、江戸に滞在し免下げを嘆願している期間に紙縒で帯を作っており、これは現存している。 前述の石高は地租改正まで「小向免」と呼ばれ、小向は年貢が軽減される土地として知られていた。なお、編纂当時の小向で大屋姓を名乗っていた家は40戸余りであった。
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