直訴と処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 05:58 UTC 版)
佐倉藩主堀田正信は新たに重税を取り立て、領民の暮らしは困窮した。全領の名主たちは郡奉行や国家老に重税の廃止を求めたが拒絶され、さらに江戸に出て江戸藩邸に訴えても(門訴)取り上げられず、惣代6人が老中に駕籠訴を行ったがこれも退けられた。このため惣五郎は1人で将軍に駕籠訴を行った。『地蔵堂通夜物語』では承応2年(1653年)とされ、上野寛永寺に参詣する四代将軍の徳川家綱に直訴したという。『堀田騒動記』では正保元年(1644年)とされており、将軍は三代徳川家光になる。直訴の結果、訴えは聞き届けられ、佐倉藩の領民は救われた。しかし、惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となり、男子4人も死罪となった。 成田市の東勝寺(宗吾霊堂)によれば、東勝寺の澄祐和尚が公津ケ原の刑場に遺骸を埋葬したといい、寺地内にある現在の「宗吾様御廟」であるという。
※この「直訴と処刑」の解説は、「佐倉惣五郎」の解説の一部です。
「直訴と処刑」を含む「佐倉惣五郎」の記事については、「佐倉惣五郎」の概要を参照ください。
- 直訴と処刑のページへのリンク