療養・死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:59 UTC 版)
冬木は引退試合後に入院し緊急手術を受けた後、5月5日に川崎球場でWEWの旗揚げ戦を行い、WEWではプロデューサーとして活躍した。この時点でがんは既に肝臓などにも転移しており、2003年3月19日、がん性腹膜炎のため、横浜市民病院で死去。42歳没。葬儀では試合入場シーンが遺影として用いられ入場コスチューム姿で納棺された。参列したGOEMON、アングル上ほとんど敵対関係であったハヤブサまでもが号泣していたと言う。冬木の没後、WEWは「冬木軍プロモーション」を名乗り、冬木の妻が社長を務めた。 冬木は2003年5月5日の川崎球場大会で一夜のみ復帰し、橋本真也と電流爆破マッチを行う予定だった。冬木は亡くなる8日前の3月11日、病院から外出許可を貰い、モルヒネを打って橋本に直談判をして対戦を約束し、お互いに握手をして別れた。この時の冬木は終始汗が止まらず、顔色も悪く既に末期的症状であったという。予定通り行われた川崎球場大会では、橋本は金村と電流爆破マッチを行ったが橋本は試合前に対戦の約束を果たすかのように冬木の遺骨を抱え、自ら電流爆破に身を投じた。なお、橋本は2年後の2005年7月11日、脳幹出血のため40歳の若さで亡くなっている。
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