町会における会所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/07 15:37 UTC 版)
町会内において「町会所」は事務所や集会所として用いられた。町役人が詰めて、町内の住民を集めて奉行所などからの「町触」などの規則を伝達したり、逆に住民が提出する届書を作成する事務を行ったりした。都市によってもその仕組みに違いがあり、大坂ではいわゆる「大坂三郷」を構成する各郷ごとに上部機関として「惣会所」が設置されたが、江戸では町名主の役宅が町会所を兼ねた。 江戸時代の大阪では各町ごとに町会所があり、町人から選出された町年寄がいて、町代が執務を行なった。町会所は町代以下、下役、夜番、木戸番、垣外番が詰め、夜番は夜廻りを一晩に三回、戌刻、亥刻、子刻に太鼓を打ち、木戸は亥刻限りで閉じられて木戸番が番をし、垣外番は四ヶ所の配下に属し、乞食を追い払うのが日々の仕事だった。 寛政の改革以後、江戸では七分積金の制度が導入され、積金を管理する場所を「町会所」と呼んだ。町会所において貧民に対して低利で資金を融資した。これとは別に江戸猿屋町には札差に対する融資を行う会所が特別に設置された(猿屋町貸金会所)。これは棄捐令によって打撃を受けた札差の経済的打撃を緩和するとともに、彼らを宥めて武家に対する貸し渋りを回避することを目的としていた。なお、この町会所の実際の管理・運営は勘定所御用両替商があたっていた。 七分積金の管理をしていた町会所は明治維新により1872年に解散し、東京府へ移管された資産の管理のため東京営繕会議所が設立され、のちに東京会議所と改称され、1876年まで続いた。
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