王氏
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王氏は諸王の集団であり、令制では皇玄孫(四世)までを範囲としていた。慶雲3年(706年)に五世王まで拡大されるが、貞観12年(870年)に諸王の数が429名に定められた。嵯峨天皇以降は臣籍降下が増加し、諸王の数は減少する。『西宮記』巻1に「王氏(一親王挙、四世以上、依巡)」とあるように、推挙は第一親王(親王の中で官位の最も高い者)の役割だったが、法親王制の確立により親王がいなくなり、平安時代中期には諸王中の最高位者、平安末期には花山天皇の子孫で神祇伯を世襲した白川伯王家が、王氏長者として氏爵を行うようになった。ただし王氏長者と呼ばれることはほとんどなく、「是定」と称されることが大半であった。宝徳元年(1449年)には白川家が行うのは略儀であるとして、再び第一親王に推挙権が戻された。
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王氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 14:35 UTC 版)
王氏は諸王の集団を指す呼称だが、氏爵は王氏出身者ではない第一親王(親王の中で官位の最も高い者)が担当した。天暦7年(953年)の元平親王(陽成天皇の第2皇子)、長元4年(1031年)の敦平親王(三条天皇の第3皇子)は是定と呼ばれている(『権記』長徳4年 (998年) 11月19日条、『小右記』長元4年(1031年)3月1日条)。院政期に法親王の制度が確立して世俗の親王がいなくなると、花山天皇の子孫で神祇伯を世襲した白川伯王家が氏爵を行うようになった。ただし同家は当主自身が王氏長者を称したことにより、是定とは呼ばれていない。宝徳元年(1449年)には氏爵の権限が再び第一親王に移り、王氏是定制が復活した(『康富記』12月11日条)。
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