独立後の経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 07:22 UTC 版)
「サンドロ・ボッティチェッリ」の記事における「独立後の経歴」の解説
1469年の土地台帳が示している通り、その時すでにボッティチェッリは自ら家をもち独立して仕事をしていた。1470年10月9日、師フィリッポ・リッピがスポレートで亡くなり、同年ボッティチェッリは自らの工房を構えた。同年6月18日から8月18日まで、彼は初めて公的注文を受けて働き、高い名声と反響を受けた。フィレンツェの商業裁判所のスパッリエーラ(背もたれ)ために制作した《剛毅》のことである。このパネル画はピエロ・ポッライオーロが制作した一連の《七徳》に嵌められることになっていた。ボッティチェッリはポッライオーロが提示した計画案を知っていたが、それとは全く異なる方法で制作した。ピエロが用いた大理石製の質素な席に、豪華に装飾された玉座を描き、司法官の務めに関する道徳的特質を喚起する奇抜な形体が採られた。つまり、この美徳をもつのに必要な「大切なもの」を象徴的に表したのである。建築はそこに座る女性の堅固で彫塑的で、とりわけ美しい姿を一体になる。ボッティチェッリは初期の模範から徐々に距離を置き、彼の同時代人たちの様式から本質的に異なる様式を生み出すことで、当時のフィレンツェの芸術における唯一無二の存在となったのである。
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