牛島のどぶの形成とその後とは? わかりやすく解説

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牛島のどぶの形成とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/14 09:31 UTC 版)

牛島のどぶ」の記事における「牛島のどぶの形成とその後」の解説

1908年明治41年11月16日富山駅移転開業したが、この工事によって掘り下げられた跡はそのまま溜まってとなって残った。この沼は約1万4000坪の大きさ有し附近住民当初これを観光利用するため湯屋料理屋建設計画したが、結局実現されることはなかった。いつしか人々はこの沼を牛島のどぶ称するようになったが、附近住民はこれを「汚名」として把握している。 牛島のどぶ飛州木材貯木場として利用されていた。1945年昭和20年8月2日未明富山大空襲においては猛火逃れようとした人々多数飛び込んだが、直撃弾を受けて即死する者が多く血の沼と化したといわれる戦後至ってもしばらく牛島のどぶ存在していたが、第13回国民体育大会富山市において開催されることとなったことで牛島地内には富山市体育館建設されるなど開発進み昭和30年代にはその姿を消した1958年昭和33年10月16日にはかつて牛島のどぶがあった場所に、富山駅北口が開設されている。 飛州木材貯木場として用いられる大正時代牛島のどぶ1932年昭和7年当時富山駅構内写真左側広がる沼が牛島のどぶ1937年昭和12年当時富山市地図富山駅北牛島のどぶ描かれている。 1946年昭和21年7月22日米軍によって撮影され富山駅周辺航空写真富山駅北には牛島のどぶ写っている。 1952年昭和27年11月9日米軍によって撮影され富山駅周辺航空写真富山駅北には牛島のどぶ写っている。

※この「牛島のどぶの形成とその後」の解説は、「牛島のどぶ」の解説の一部です。
「牛島のどぶの形成とその後」を含む「牛島のどぶ」の記事については、「牛島のどぶ」の概要を参照ください。

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