片岡毛織の法人化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/31 14:40 UTC 版)
1909年(明治42年)には片岡毛織工場を法人化させ、個人経営から資本金5万円の合名会社となった。この頃にも尾張西部の織物業界は綿織物が中心だったが、片岡毛織の成功により尾西織物同業組合の中には毛織物の生産を志す工場も出てきた。明治時代の津島町は官営東海道本線の路線から外れたことで衰退の兆しが見えていたが、春吉は近隣の工場にも毛織物の技術を提供することで、地域全体の産業の活性化を志した。1910年(明治43年)に明治天皇が愛知県で陸軍大演習を総監した際には、各界の著名人が晩餐会に招かれたが、春吉も豊田自動織機創業者の豊田佐吉らとともに実業功労者として招かれる栄誉に浴した。 なお、1907年(明治40年)には次女の鈴子が、1908年(明治41年)には五男の稔(後の片岡毛織会長)が、1909年(明治42年)には三女のあや子が、1910年(明治43年)には六男の勝男(後の片岡毛織社長)が、1911年(明治44年)には七男の直(後の片岡毛織専務取締役)が、1913年(大正2年)には四女の冨美子が、1915年(大正4年)には八男の斉(後の片岡毛織取締役)が、1919年(大正8年)には五女の静代が生まれている。結局春吉は志げとの間に13人の子(八男五女)を儲けている。
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