片岡毛織の株式会社化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/31 14:40 UTC 版)
1914年(大正3年)には孫三郎が片岡毛織合名会社の初代代表を辞任し、春吉が第2代の代表となった。大正時代に入ると第一次世界大戦による好景気の中で尾州毛織物が黄金時代を迎えており、尾西織物同業組合で綿織物と毛織物の生産額が逆転したのは1917年(大正6年)のことである。1919年(大正8年)7月1日には片岡毛織を合名会社から株式会社に移行させ、春吉は片岡毛織株式会社の初代社長に就任した。同年には23歳だった長男の孫忠が田中善兵衛(笠松銀行頭取)の娘登茂と結婚している。1920年(大正9年)の戦後恐慌では100万円近くの負債を抱え、太平洋戦争後にようやく完済している。 地域の名士となった春吉は尾西地域で様々な事業に関与しており、繊維関連企業の役員や株主として経営に参画するなどしている。また、1914年(大正3年)には全通を果たした尾西鉄道株式会社の相談役となり、岐阜県土岐郡に建設途中だった駄知鉄道の債務保証者にもなっている。大正期には海部郡佐屋町出身の政治家である加藤高明の後援会を創設して会長となった。加藤は春吉の死から4か月後の1924年(大正13年)6月11日に内閣総理大臣に就任している。 洋画家の三岸好太郎は片岡家に寄寓していた時期があり、12号の『片岡春吉像』、6号の『大正末期の片岡毛織』などを描いている。
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