然別への転居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 21:35 UTC 版)
入植から10年後の1893年(明治26年)、帯広は市街予定地の区画割にまで発展し、徐々に生活環境が改善されていた。しかし勝は、畑の成績が一向に上がらないことから、畑仕事に見切りをつけ、牧場経営に転換すべく、然別村(のちの音更町)へ転居した。カネは10年かけて開拓した帯広の地を離れ、新たな地での再出発を余儀なくされた。カネの苦労は依然として、減ることはなかった。 然別では、事業はしばらくの間は順調で、生活も安定していたかのようだった。勝は牧場経営に熱心に取り組み、やがて村の総代に選ばれ、第1期音更村村会議員に当選するほど、村民たちからの信頼を得ていた。しかし勝は次第に酒を煽るようになり、家庭を顧みず、カネにも辛くあたった。これは、頼みの綱であった牧場経営は、収入に対して支出が2倍以上という赤字続きであったことや、後から然別に入植したほかの者が、さほど苦労もなく収入を得ていたことで、勝の不満が募ったためと見られている。 勝にかわり、家庭でのすべての負担はカネの肩にかかった。カネは家計のやりくり、二男四女の養育、世間との交際のすべてを、勝に代わってこなした。特に家計のやりくりは困難を極め、トウモロコシの粥が主食であった。子どもたちの養育のためにニワトリを飼い、卵を売って学費にあてたこともあった。このために勝とカネの子たちは、1人残らず「お母さん子」であった。 1921年(大正10年)10月、勝は脳出血により倒れ、翌1922年(大正11年)に死去した。カネは夫の最期を看取ったあとに、然別を離れて帯広に戻った。
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