火曜会に入会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:54 UTC 版)
1927年(昭和2年)11月研究会に愛想をつかした近衛文麿が一条実孝公爵や四条隆愛侯爵、広幡忠隆侯爵、中御門経恭侯爵、中山輔親侯爵らとともに研究会を離脱し、各派に分散していた公侯爵議員を集める会派作りに着手した。佐佐木行忠によると家達はこの近衛の動きを熱心に支援していたという。家達も「僕は公侯爵団体組織の計画に加わつた同志の一人だもの、今さら新団体に入会するのは問題でない。別に秘密に計画したわけではなく、世間の人が気づかなかつたのである。話の始まりは何年も前のことだが、具体的協議に入つたのは今年晩春初夏の候だったと思う。貴族院の現状並みに将来を顧慮した近衛、木戸、細川、広幡の諸君や、死んだ二条公などが熱心に提唱したもので、僕も世襲議員の結束非ならずとして同志の一人に加わり、爾来協同して実現に骨折つた」と述べている。この計画は、互選がないゆえに「一番自由な立場」である世襲議員の公侯爵議員は「貴族院の自制」が必要だと考える者が多く、そのため公侯爵が結束してその影響力を大きくすることで貴族院を「事実上の権限縮小」「貴族院は衆議院多数の支持する政府を援けて円満にその政策を遂行させてゆく」存在にさせることができるという考えに立脚したものだった。 11月29日に近衛公爵、細川侯爵、中御門侯爵を幹事として火曜会が発足した。公侯爵議員だけが入れる貴族院改革を掲げる団体で、当初は院内会派として必要な25名に満たなかったため社交団体として結成されたが、1928年(昭和3年)3月に貴族院交渉団体として認められた。家達も火曜会に入会した。しかし火曜会への入会で研究会の家達への不満は高まった。
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