漢口日本租界とは? わかりやすく解説

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漢口日本租界

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/24 02:43 UTC 版)

漢口日本租界
漢口日本租界
日本語
1898年 - 1938年8月
1938年10月 - 1943年
事実上の国旗
国の標語: 八紘一宇
国歌:
君が代
※事実上

中央の点線は拡張前の北部境界線。
公用語 日本語(事実上)
首都 不明
天皇大元帥
1898年 - 1912年 明治天皇
1912年 - 1926年大正天皇
1926年 - 1943年昭和天皇
内閣総理大臣
1898年6月30日 - 1898年11月8日大隈重信(初代)
1941年10月18日 - 1944年7月22日東條英機(最後)
面積
1907年約0.061km²
人口
1917年(日本人駐在員)2,045人
変遷
1895年4月 日清戦争終結
1898年7月16日漢口日本租界協定に調印。
1937年8月日中戦争で一時的に中国軍の占領下に置かれる。
1938年8月13日国民政府が租界を正式に併合し、「漢口第四専区」と改称。
1938年10月25日日本軍が漢口租界を再占領して再度統治下に置かれる。
1943年3月30日汪兆銘政権へ返還。
現在 中華人民共和国武漢市

漢口日本租界(かんこうにほんそかい)は、日本が1898年から1943年にかけて中国漢口(現:武漢市)に設置していた租界
最も遅く設置された漢口租界[1]で、日中戦争で一度国民革命軍に占領されるが再度取り返し、1943年に汪兆銘政権へ正式に返還した。

漢口の海兵隊兵舎

概要

日清戦争に勝利した日本は蘇州杭州沙市重慶天津上海市廈門漢口の計八カ所のに租界を置く事が認められた[2]

1911年辛亥革命が勃発すると、海外移住者や租界を保護する為に漢口に500人の軍隊を派兵して長期間の駐在を行い、国外に駐屯地を設置した[3]

当時の街の光景

脚注

  1. ^ 孫 安石 (2003). 神奈川大学人文学会. ed. 漢口の都市発展と日本租界について. オリジナルの2024-04-09時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20240409013223/http://human.kanagawa-u.ac.jp/gakkai/publ/pdf/no149/14916.pdf 2024年4月11日閲覧。 
  2. ^ 甲午战争后六年间长江流域通商口岸日租界设立问题述论”. 中国人民大学清史研究所. 2024年4月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月16日閲覧。
  3. ^ 李少军 (2013-03-15). 民国初期在汉口之日本陆军派遣队述略. pp. 79-96. オリジナルの2024-04-14時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20240414172618/https://expert.hbskw.com/item/itemDetail/13570.shtml 2024年4月14日閲覧。. 

関連項目




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