漢口日本租界
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- 漢口日本租界
- 漢口日本租界
(日本語) -
← 1898年 - 1938年8月
1938年10月 - 1943年→
(事実上の国旗) - 国の標語: 八紘一宇
- 国歌:
君が代※事実上
中央の点線は拡張前の北部境界線。-
公用語 日本語(事実上) 首都 不明 - 天皇兼大元帥
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1898年 - 1912年 明治天皇 1912年 - 1926年 大正天皇 1926年 - 1943年 昭和天皇 - 内閣総理大臣
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1898年6月30日 - 1898年11月8日 大隈重信(初代) 1941年10月18日 - 1944年7月22日 東條英機(最後) - 面積
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1907年 約0.061km² - 人口
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1917年 (日本人駐在員)2,045人 - 変遷
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1895年4月 日清戦争終結 1898年7月16日 漢口日本租界協定に調印。 1937年8月 日中戦争で一時的に中国軍の占領下に置かれる。 1938年8月13日 国民政府が租界を正式に併合し、「漢口第四専区」と改称。 1938年10月25日 日本軍が漢口租界を再占領して再度統治下に置かれる。 1943年3月30日 汪兆銘政権へ返還。
現在 中華人民共和国(武漢市)
漢口日本租界(かんこうにほんそかい)は、日本が1898年から1943年にかけて中国の漢口(現:武漢市)に設置していた租界。
最も遅く設置された漢口租界[1]で、日中戦争で一度国民革命軍に占領されるが再度取り返し、1943年に汪兆銘政権へ正式に返還した。

概要
日清戦争に勝利した日本は蘇州・杭州・沙市・重慶・天津・上海市・廈門・漢口の計八カ所の港に租界を置く事が認められた[2]。
1911年に辛亥革命が勃発すると、海外移住者や租界を保護する為に漢口に500人の軍隊を派兵して長期間の駐在を行い、国外に駐屯地を設置した[3]。

脚注
- ^ 孫 安石 (2003). 神奈川大学人文学会. ed. 漢口の都市発展と日本租界について. オリジナルの2024-04-09時点におけるアーカイブ。 2024年4月11日閲覧。
- ^ “甲午战争后六年间长江流域通商口岸日租界设立问题述论”. 中国人民大学清史研究所. 2024年4月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月16日閲覧。
- ^ 李少军 (2013-03-15). 民国初期在汉口之日本陆军派遣队述略. pp. 79-96. オリジナルの2024-04-14時点におけるアーカイブ。 2024年4月14日閲覧。.
関連項目
- 大日本帝国#一部統治区域
- 漢口租界
- 義和団の乱
- 漢口市
- イギリス租界
- ロシア租界
- フランス租界
- ドイツ租界
- 漢口日本租界のページへのリンク