準州初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 07:59 UTC 版)
土地の開放を決めた簡潔な法ではオクラホマにおける政府の形まで決めていなかった。土地の警察や裁判所も無く、連邦軍が法の執行を行い、アイザック・パーカー連邦判事の下に合衆国地区裁判所アーカンソー西地区が唯一の刑法と民法を司る機関だった。それにも拘らず、この地区は概して平和だった。大半の土地紛争は流血無しに解決され、ほんの数件が解決までに数年を要した。1年間オクラホマ準州の人々は半分自治の状態だった。この機関の唯一の政府は申し合わせで造られて維持され、無法や違法も無く、資産や生命はいつも適切に守られた。 翌1890年5月2日、連邦議会はオクラホマ基本法を成立させ、インディアン準州の西半分をオクラホマ準州に組織化した。東半分はインディアン準州として、インディアン、特に文明化五部族の支配下に残った。連邦議会はオクラホマ準州に、「誰もいない土地」(No Man's Land)と呼ばれた3,681,000エーカー(14,900 km2)の帯状の土地を組み込み、ビーバー郡となった。1890年9月、オクラホマ準州東部のソーク族およびサック族連合、アイオワ族、およびポタワトミー族居留地 1,282,434エーカー (5,190 km2)が開拓者に開放された。翌年春、準州中央部のシャイアン族とアラパホ族の土地4,397,771エーカー(17,797 km2)が開放された。1893年9月16日、チェロキー・アウトレットが開放され、ケイ郡、グラント郡、ウッズ郡、ウッドワード郡、ガーフィールド郡、ノーブル郡およびポーニー郡がその中の 6,014,239エーカー(24,339 km2)の土地から創られた。1895年、キカプー族居留地206,662エーカー (836 km2)が開拓され、翌年テキサス州の一部と考えられていたグリア郡が合衆国最高裁判所の判決でオクラホマ準州に与えられた。これら全てにカイオワ族、コマンチェ族、アパッチ族およびウィチタ族居留地が開放され、オクラホマ準州の開拓地は 24,000,000エーカー (97,000 km2)となり、そのうち1,725,646 エーカー (6,983 km2)がインディアン居留地に組み込まれていた。
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