湯川宏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/04 14:01 UTC 版)
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| 湯川 宏 | |
|---|---|
| 生年月日 | 1918年3月9日 | 
| 出生地 | 和歌山県海南市 | 
| 没年月日 | 1986年9月26日(68歳没) | 
| 死没地 |  東京都新宿区 (慶應義塾大学病院)  | 
    
| 出身校 | 東京帝国大学法学部卒業 | 
| 所属政党 | 自由民主党 | 
| 称号 |  正四位 勲二等瑞宝章  | 
    
| 選挙区 | 旧・大阪1区 | 
| 当選回数 | 5回 | 
| 在任期間 | 1976年12月6日 - 1986年9月26日 | 
湯川 宏(ゆかわ ひろし、1918年3月9日 - 1986年9月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(5 期)。
経歴
1918年、和歌山県海南市生まれ。和歌山県立和歌山中学校を経て第三高等学校文科甲類卒業。東京帝国大学法学部在学中、高等文官試験行政科試験に合格。大学卒業後、厚生省に入省した。短期現役海軍主計科士官(6期)を志願し、1941年4月、海軍経理学校に入校し海軍主計中尉に任官[1]。同年8月、経理学校を卒業[1]。飛龍に配属[1]。第15警備隊勤務を経て、1942年8月、旭東丸主計長に就任[1]。同年11月、主計大尉に進み、以後、第二軍需部部員、第四南遣艦隊スラバヤ連絡所長を歴任し同副官として敗戦を迎えた[1]。1945年9月、海軍主計少佐に進む[1]。アンボン軍事裁判でオーストラリア軍との折衝に従事し、セラム島収容を経て、1946年6月に田辺に解員(復員)した[1]。
1949年より大阪府に勤務し、1951年にフルブライト・プログラムおよびガリオア資金留学制度でシカゴ大学に留学。1960年に大阪府企業局長、1967年に大阪府副知事となり、1970年には日本万国博覧会準備事務局長を務める。1971年、同府知事の左藤義詮が落選した際には進退をともにするとして辞表を提出した[2]。1975年の大阪府知事選に自由民主党の要請を受けて立候補した[3]が、現職の黒田了一に敗れ落選した[4]。
菅野和太郎の死去に伴い[5]、1976年の第34回衆議院議員総選挙に旧大阪1区から自民党公認で立候補し当選。以降は中曽根派に所属して連続5期務める。1981年に鈴木改造内閣で経済企画政務次官に就任。また、1983年には第2次中曽根内閣で厚生政務次官を務めている。
1986年7月の第38回衆議院議員総選挙では病を押して立候補し5度目の当選を果たしたが、その後に病状が急変し同年9月26日、心不全のため慶應義塾大学病院で死去した[6]。68歳没。同月30日、特旨を以て位を五級追陞され、死没日付をもって正四位勲二等に叙され、瑞宝章を追贈された[7]。追悼演説は同年10月30日の衆議院本会議で、高校・東京帝国大学の同級生であり大東亜戦争でも海軍主計科士官として同じ戦地に赴いた永末英一が行った[8]。なお、改選された第38回衆議院議員総選挙から3か月以内であったため、次点である大矢卓史が繰上当選となった。
訳書
- ハンス・J・モーゲンソー『世界政治と國家理性』(鈴木成高共訳、創文社、1954年)
 
元秘書
脚注
参考文献
- 『海軍主計科士官物語〈短現総覧〉』浴恩出版会、1968年。
 - 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』(衆議院、1990年11月)
 
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