清心流のその後
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1983年、宗家菊地和雄の死後、宗家長女が二代目を襲名。 1985年、東京総本部指導員が退館し独自会派を起こしたため、本部指導員が不在となり閉鎖をよぎなくされ、宗家長女は二代目継承をしたが、その後本部を閉鎖した。それにより地方の各支部が単一活動をよぎなくされ本部、全国組織は自然消滅となり各支部は他流への転向や解散又は単一道場会派と清心流は減退した。 1987年、旧本部員を中心に日本清心流空手道連盟(会長西田隆/飛翔会)が設立され、存続する旧地方支部(7支部)への再結集が一度はなされたが連盟本部と地方支部長との考え方の相違が大きく、大半の地方支部が脱退し再統一には至らなかった。 清心流の継承問題においては、菊地和雄死後より様々な論議がなされているが菊地宗家の妻は「清心流は皆様のもの」と話している。二代目を一時継承し放棄した娘も若くして他界したため、統一された組織体がないこともあり会派・道場単位のものとなっている。 当初、旧本部副館長であった西田隆を中心とする西田派、旧全日本清心会(清心流全国組織)副会長であった岡田孝慈(千葉県松戸支部長)の岡田派が生まれ、その後、地方支部が集まり清心流空手道協会が設立され旧宇都宮支部長であった疋田清拳を会長とした疋田派の三派に大きく分かれ分裂した。岡田派の岡田孝慈が他界し、岡田派は疋田派に加わる形になったが、旧竜ヶ崎支部長で岡田派に加わっていた中山勝雄は疋田派には移行せず日本空手道清心会として日本空手道連合会(全日本空手道連盟)へ清心会として会派登録した。これにより西田派、疋田派、諸派という形になっており、NPO法人全日本清心会以外の各派は数名から数十名規模の町道場単位のもので流派会派としての実質的な体制は整っていないのが実情である。 その後、疋田派は参加していた岡田派が抜け、規模を縮小した。国内外に組織基盤を持つNPO法人全日本清心会(旧札幌支部)や米山派(旧熱海支部)は新派としての独自路線を歩んでいる。その他、岡田孝慈より指導を受け、疋田派より脱退した旧松戸支部員が千葉派清心館を立ち上げ、現在は正統・清心流空手道総本部を名乗っている。
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