清元延寿太夫とは? わかりやすく解説

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清元延寿太夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/02 17:33 UTC 版)

清元 延寿太夫(きよもと えんじゅだゆう)は、江戸浄瑠璃清元節宗家で高輪派の家元である。正式表記は旧字の延壽太夫。現在まで7代ある。

3代目を除く5代目までの墓所が台東区浄心寺にある。

初代

安永6年(1777年) - 文政8年5月26日1825年7月11日))通称は岡村屋吉五郎。

江戸横山町の茶油商に生まれる。1794年富本節の初代富本斎宮太夫(後に剃髪して清水延寿斎)の養子、高弟の弟子で斎宮吉から1797年に2代目斎宮太夫を襲名。1812年に富本節を離れ豊後路清海太夫の名で一派を設立し1814年に清元延寿太夫を名乗り清元節を創設した。

従来の美声に庶民の風俗、世相、時代を取り入れ清元節の隆盛の基礎を築く。1824年に剃髪して清元延寿斎を号した。翌年劇場の帰宅途中に何者かに刺殺される。犯人は延寿太夫の活躍を妬んだ富本の仕業とされたが犯人不明。

当時あまりにも人気だったため「都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫に鶴屋南北」という落書が読まれるほどだった。「累」「山姥」「須磨」等を語り評価を受ける。

2代目

享和2年(1802年) - 安政2年9月26日1855年11月5日))通称は岡村屋藤兵衛。号は紫雲斎。

初代の実子。幼名を巳三治郎。1816年松江藩主の松平不昧より初代清元栄寿太夫の名を拝名し1819年に襲名披露する。

1827年に2代目延寿太夫を襲名。「落人」「神田祭」「お染」等を初演。1845年には初代清元太兵衛と改名。

次女は清元お葉でその夫が婿養子の4代目。

3代目

文政5年(1822年) - 安政5年8月10日1858年9月16日))

浅草今戸町藤田屋の息子。2代目の門下で妹婿。1853年市村座で清元太兵衛のワキを勤めた。1858年に襲名したものの芸に乏しく目立った活躍せず没。 死因は、当時、江戸で流行していたコレラによるもの[1]

墓所は台東区保元寺。

4代目

天保3年(1832年) - 明治37年(1904年3月16日))本名は岡村(旧姓:斎藤)源之助。

質屋谷中の三河屋の生まれ、芸を見込まれて、1858年に2代目延寿太夫の次女の清元お葉の婿養子になり4代目延寿太夫を襲名。河竹黙阿弥と親交が深く、「十六夜」「三千歳」「雁金」等を生み出した。

1891年に2代目太兵衛、1893年には隠居し延寿翁を名乗る。養子の3代目清元栄寿太夫が5代目延寿太夫を襲名した。

5代目

清元延寿太夫 (5代目)の項参照。

6代目

清元延寿太夫 (6代目)の項参照。

7代目

清元延寿太夫 (7代目)の項参照。

脚注

  1. ^ 池田正一郎『日本災変通志』新人物往来社、2004年12月15日、694頁。ISBN 4-404-03190-4 

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