法廷闘争と収監
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 16:04 UTC 版)
委員長に就任した1957年、デイブ・ベックと共に、ロバート・ケネディ議員らのマクレラン委員会の場で組合犯罪を告発されたが、裁判で巻き返し有罪を回避した。1960年代初め、アメリカ政府は、運送業界に影響の大きいチームスターズのストライキがアメリカ経済に打撃を与えかねないとして、ホッファを再びターゲットに据えた。1961年、ジョン・F・ケネディの大統領就任に伴い司法長官となったロバート・ケネディに、組合の巨額年金の行方や裏社会との繋がりで再び告発され、厳しく追及されると対決姿勢を露わにした。 1964年7月、チームスターズ年金の不正運用、陪審員買収、賄賂などで有罪となったが、控訴して時間稼ぎした。最終的に懲役13年刑が確定し、1967年3月7日にルイスバーグ(ペンシルベニア州)の連邦刑務所に収監された。収監前に子飼いのフランク・フィッツシモンズを、組合の新設ポストに据え、委員長の代役をさせた。 1971年半ば、ニクソン大統領に近い政府関係者と、委員長職を辞任する代わりに特赦とする司法取引に応じ、収監中に委員長職を辞任した。同年12月、大統領特赦で10年間の組合活動禁止を条件に出所した。古巣に戻ると代役のはずのフィッツシモンズが心変わりして委員長ポストを死守しホッファの追放を画策したため、復帰工作に奔走した。また組合活動の禁止を憲法違反として法廷闘争も始めた。
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