治世とサイイド兄弟の横暴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 03:05 UTC 版)
「ファッルフシヤル」の記事における「治世とサイイド兄弟の横暴」の解説
ムガル帝国の皇帝となったファッルフシヤルは、即位後すぐにサイイド兄弟の協力に対し報い、アブドゥッラー・ハーンを宰相と財務大臣(ワズィール)に、フサイン・アリー・ハーンを軍務大臣(ミール・バフシー、軍総司令官)にそれぞれ任じただが、ハーフィー・ハーンはこの任命をファッルフシヤルの最も大きな失策とだと語っている。なぜなら、これらの職に任命されたかつての人物は、「大変責任のある要職で、かつての王たちがその高い地位を授けたのは、賢明かつ高潔な人物で、驚くほど忍耐強く、豊富な経験をもち、その資質が長い経験によって試された人物」、であったからである。 ファッルフシヤル即位後、サイイド兄弟は皇帝の即位に反対した貴族たち大量に虐殺するなど、宮廷の分裂を招くことを平気でした。 同年、デカン地方のマラーター王国では、 バーラージー・ヴィシュワナートがマラーター王国の宰相となり、マラーターがさらに攻勢を強めてきた。パンジャーブではシク教徒の反乱が続き、1716年1月に帝国が反乱指導者バンダー・シングを処刑したのちも、同地では反乱が収まらず、ムガル帝国はパンジャーブの支配権を失いつつあった(とはいえ、シク教徒は内紛に明け暮れ、デリーに近かったことからイラン軍やアフガン軍の襲撃を受け、主権を確立したのは1765年のことだった)。また、デリー近くのアーグラでは、ジャート族たちがバラトプルに独自の政権を持ち、ムガル帝国に対して反乱を継続した。 帝国はこれら反乱軍を金で抱きこもうとしたが、広範囲に及ぶ飢饉が発生して歳入が急激に減少し、帝国は必要な費用すら払えなくなっていた。
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